牧野富太郎 作「植物研究雑誌 第五巻」より

さんせう(山椒)即ち秦椒の一品に朝倉山椒というものがある。山椒中の上品なものと評価せられて居る、枝上に刺のない一変種()であるが其の枝葉果実の状は大して山椒と違いはない、其の由来に就き『若水篤信本草和名弁』と題する写本に次の如く詳記してある、此の書は幹貞(姓未詳)と言う江戸の医者の著したもので此の人は元と但馬に行ったということが此の書の文中に見えている
「朝倉山椒は其の由来但馬養父郡朝倉の郷と云う所あり一郷に七個村あり其の内に今瀧寺村あり村の中に今瀧寺と云う寺あり故に村号とする今瀧寺の宅後石崖絶壁あり高さ十丈許其の上に広さ百歩許の平塹の地あり五六歩許引退て又絶壁上に立つこと十丈許あり其の半岫(はんみね)平塹の所自然生の蜀椒あり地を撲して茂盛す其の所には鳥ならでは至ること不能絶崖の上より見出したるにや人を籠にのせて釣下げて山椒の接ぎ穂を取しと云うその接木世間に弘まり今に至って朝倉の名日本国中に満つ近代丹波国山椒を多く作り世間に貨するにより人朝倉山椒を丹波の事とす蜀椒の種子丹波にも別に有や抑又但馬の朝倉を接ひろめたるか之を知未(しらず)
【牧野云】文中「地を撲して」とは地に満つる意であると思う

尚右の朝倉山椒に就き向井元升の「包厨備用倭名本草」に次の如く出て居る
「蜀椒(しょくせう) 和名抄に蜀椒なし多識編になるはじかみ今に俗に云うアサクラザンセウ・・・・○元升日本邦のサンセウはみな花なくして実をむすぶ蜀椒の類なりアサクラザンセウのみにかぎらずしかれどもアサクラザンセウはすぐれて本草にみえたるにひとし」

又、平野必大の『本朝食鑑』には左の文がある
「山椒〔釈名〕蜀椒 朝倉椒・・・・朝倉はm州の地名其の地山椒多く産して気味形色他に殊な故に之を稱(称)す・・・・ 〔集解〕凡そ椒素と但の朝倉より丹州に移す故に丹産も亦(又)通俗に朝倉と稱(称)す其の椒は状ち小にして尋常の椒に似て肉厚く皮皺で色も亦くれない潤気味甚だ峻(けわ)し其の目も亦光黒世人最も之を賞す」原卜漢文

又、宮崎安貞の『農業全書』には次の様に述べて居る
「川椒(さんせう) 蜀椒(あさくらさんせう)を勝れたりとす。実ふとく色香味共によし。是を椒(せう)とばかり云うべきを。出る所。国によりて。つねのさんせうを。秦椒(しんせう)とよび。蜀椒(しょくせう)をあさくらざんせうと号するなり。丹波。但馬より出る。朝倉と云うは。つねの山椒とは。其の枝はかはりて。別の物なり。」

又、寺島良安の『倭漢三才図會(図絵)』には次の様に記して居る
「朝倉椒 あさくらさんしやう 按ずるに朝倉山椒は始め但馬の朝倉谷 其の谷の両岸四五町の間皆椒樹なり より出づ丹波丹後に多く其の枝を接ぎ今の人持って丹波の朝倉と為す近頃奥州津軽の産亦顆大にして気味勝れり京師大阪の人家に枝を接ぐと雖(いえど)多く長ぜず四五年を経る者稀なり山椒の名此に據る其の樹は刺無く葉は大にして顆も亦他椒より大なり夏月小花を開く其の目光り黒最も美なり其の子生(みばえ)の者は佳ならず枝を以て接ぐべし」原卜漢文

又、稲生若水の『若水本草秘録』写本に次の如くある
「蜀椒 和名サンセウ 和産但馬朝倉之産上品也和俗にアサクラサンゼウと云なり又越前にも朝倉と云う所ありそれにはあらず丹波丹後次之」

又、貝原益軒の『大和草本』には左の通り記してある
「朝倉山椒は但馬の朝倉の里を初とすその後丹波にも植ふ香気烈し常の山椒に葉もかはりはりすくなし」

更に小野蘭山の『本草網目啓蒙』には次の如く出て居る
「蜀椒 ナルハジカミ和名鈔 フサハジカミ同上 アサクラサンシヤウ 唐山にては蜀の国の山椒を上品とす故に蜀椒という本邦にてはアサクラザンシヤウ上品とす蜀の国の種には非ざれども蜀椒の名を借り用ゆこの品元但州朝倉より出る故アサクラザンシヤウと云う今は丹波に多く傅へ稱て其の地の名産となれり播州有馬にも多く栽ゆ・・・・・・・・今薬家には朝倉ザンシヤウの子を去り殻のみを売る葉は常椒より大にして木に刺なし実は常椒を三つ合せたる大さにして辛多く香気多しこの木枯れ易し故に多く接換す」

右書の外は今此に省略する
謂ゆる(いわゆる)朝倉山椒は其の枝に刺の無き一品であって往々人家に栽えられて居る刺がないから葉を採るに頗る(すこぶる)便利である、樹によりては極めて短き刺が枝の中に現れることもある、又所によっては必ず短き刺のあるものがあって長き刺のある普通のさんせうと刺の無い朝倉さんせうとの中間に立って居るのを見受ける、私は曾て此の短刺の品を Var.brevispinum Makino. として発表し其の和名をやまあさくらざんせうとして置いた

ここまで